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ペットボトルに入ったミネラルウォーターで口を濯がせ、未だ涙の止まらないままの聖の顔を持ってきたタオルで拭ってやったが、それは気休め程度にしかならなかった。
「この部屋換気するから、とりあえず移動するぞ。ベッドなら他にも空きがあるし」
両腕で抱き上げても聖が抵抗する気配はなく、ただ表情を隠すようにアクシアルの胸へと顔を埋めた。
抱きつくほどに心を許して頼れるわけではなくて、それでも何かに縋らずにはいられなくて、聖はアクシアルの服へしがみつく。
「・・・・失いたく・‥なかったんだ」
ぽつりと呟かれた聖の言葉に、アクシアルはあの頃に戻ったような錯覚を覚える。
ロイが自分に弱音を吐いたのは、たった一度。
それも、心が病んで尚、誰にも頼ろうとしないロイに、アクシアルが半ば強引に抱え込んでいた激情を吐き出させただけで。
あの時のロイも、今の聖と同じ言葉を口にした。
「‥‥‥レイスのことを、憎んだことなんてなかった。彼に出会わなければ、私はただの無能な人形程度でしかなかったはずだ」
もう一つあるベッドルームの、使われていない方のベッドへ聖を降ろすと、自分もその隣に座り震える聖を落ち着かせるように抱き寄せる。
「好意を持って欲しいとか、必要とされたいとか、そんな図々しいことを考えていたわけじゃないんだ。ただ・・‥嫌われたくは、なかった。他の誰がどう思おうと構わなかった…レイスにだけは、否定されたくなかった」
けれどそれが無駄な願いであることも、本当は初めから知っていた。
龍族の長の血を引く自分と、父王に捕まり幽閉されたレイス。

─────私ハ初メカラ オ前ナド認メテイナイ

告げられた言葉は余りに苦しくて、繰り返し、記憶を揺さぶっては脳裏に響く。
止まらない涙と息苦しさに、聖は両手で顔を隠した。
「最初から分かっていたけどっ、気付かないフリをして…現実として受け止めるには苦しすぎて…‥‥でもだからって、だからって殺したかったわけじゃないっっ!!」
「違うっ!そうじゃないからっ、落ち着け」
取り乱す聖の身体を抱く腕の力を強め、アクシアルは言い聞かせるように強い口調で告げる。
「違うって…なんでそんな捻じ曲げた思い出し方してんだよ」
聖の顔を胸に埋めさせるように強く抱き寄せ、アクシアルはロイのことを思って苦く表情を歪めた。
事実はどうあれ、聖がそんな風に思い出すということは、ロイも深層心理ではそう認識していたのではないだろうか。
「こんなだったらさっき聞かれた時に、もっとちゃんと説明しておけば良かった。悪かったよ…思い出さないでいられるなら、その方がいいと思ったんだ」
己の判断ミスを悔やみ、しかしそれなら尚のこと、全てを思い出した時に聖の精神が耐えられるのかが気に掛かる。
感情を表に出せるだけロイよりもましか、或いは本当に精神面で聖の方が弱いのか…流石に現時点で判断できる物ではない。
「王子は確かに今も生きてる、それは嘘じゃない。けど………死んだのも事実だ」
そう告げた瞬間、腕の中で聖の身体が強ばるのが分かる。
「……………オレが、あの人を蘇生した」
言葉に聖は瞳を見開いたまま、ぎこちない動作で俯いていた顔を僅かに上げた。
「魔族は元々生命力が強いから、完全な死となる前の仮死状態が他の種族より長い。ましてレイスはあの人の息子だ」
「・・‥っ・‥れ‥、が‥?」
硬直した身体は不自然に震えが止まり、代わりにアクシアルの腕をきつく掴む。
「お前を退けレイスを殺せる相手など、私以外に誰が居るっっ?!」
言いながらも、腕を掴む指には縋るように力が込められ、アクシアルは溜め息をこぼした。
「アクシアルが居なくたってレイは他者を寄せ付けないほど強かったっ、それで皆が苦しんでいるのも知っていたっ!!ましてアルがいたらっっ」
「何度も言わせるな」
酷く冷めた口調で告げると、聖の肩が大袈裟に揺れる。
「確かにお前の言うとおり、あの当時面と向かって挑んで王子を殺せるとしたら、オレやご主人を除けばロイくらいだっただろう。けど、殺したのがロイじゃないことは事実だ」
「・・・・・・」
「大体、もし王子を殺したのがロイだったとしたら、いくらロイでもオレは許さない。あんたに対してだって、こんな風に世話焼いたりしないだろうよ」
言い聞かせるわけでもなく、ただ淡々と話すアクシアルに聖はようやく黙り込んだが、しがみつく指から力が抜けることはなく、俯いたまま。
「他に、言いたいことは?」
見開かれていた瞳をようやく閉じて、辿々しく解いた指は再び甦る感覚から逃れるように…祈るように組まれて。
「聖」
アクシアルは丁寧に名を呼ぶと、俯いたままの頭をぽんぽんと叩く。
「言いたいこと、あんじゃないの?もっと単純なことで…今なら、聞いてやるけど?」
固く組んだ両手に宥めるように手を乗せて静かな口調で促すと、それが聖にとって精一杯の自己主張というように、アクシアルの胸に額を預けてくる。
「…‥ッ‥ね、が‥・‥・っ・、・・・‥て・」
音にならない言葉を、それでも受け止めるように抱き寄せられ、それまでロイの記憶に圧迫されていた聖の心が爆発した。
「助けてッッッ!!!!!」



◇◇◇◇◇



国境にほど近い町、ウェント。
他の地では徐々に治安の悪化が進み、とうとう言い伝えられてきた魔王の復活が迫ると占者たちが騒ぐ中、ウェントの町はその事実を忘れさせられるほどに賑やかで活気に満ちている。
戦乱から遠のいた長い時間、国境に近いこの町は多くの種族が入り交じって生活を送っており、それが当たり前の情景なのだ。
「久しいな」
裏路地にある武具屋から出てきた金髪の男は、聞き覚えのある声に大通りへと繋がった道の先を見やり、そこに見知った顔を確認すると、荷物を抱え直して歩調を早めつつ歩み寄った。
自分を呼んだ相手は人の目を惹きつける美麗な容姿と種の特徴がはっきりと現れる耳を隠すようにフードをかぶってはいたが、それで尚も通行人の羨望の目が注がれている。
「このようなところでお会いするとは珍しいですね。人混みはお嫌いでしょうに」
それとなく彼を人混みから庇う位置に立ち、再会を素直に喜ぶように微笑んだ。
「馴染みの薬剤屋がある」
話しながら歩き始めた彼に合わせながら、男は少しばかり思考を巡らせた。
それは滅多に彼自ら赴く場所ではないことを知っていて、しかしそういえば普段彼の遣いを買って出るはずの相手が居ないことに気づく。
「そういえば、過保護な連れが今日は居ないみたいですが」
寧ろ同行しているのであれば、彼とこうして言葉を交わすことすらそうそう叶わないなと思い出し、思わず苦笑を漏らした。
「アルなら野次馬に行くと言って出掛けたきりだ」
「はぁ‥・・ヤジ、馬‥ですか‥……」
相変わらず言語崩壊に近い会話を交わしているなと思いつつ、あれほど過保護な男が自ら彼の側を離れてまで出向くとは、一体どれほどの事態なのかと興味は引かれる。
疑問が顔に出たのか、それまで無表情だった彼の頬が僅かながら緩められた。
半分以上がフードに隠された表情は、それがなければ一体何人の足を止めることになっただろうと考え、あの男が度を過ぎて過保護にする意味を少しは理解できる。
「鳳凰の話は知っているか?」
「耳には入っています。愚かにも地上人に捕らえられた神族とか………あぁ、成る程。大方の予想はつきました」
あのアクシアルがひどく猫っ可愛がりしている彼の元を一時的に離れてまで野次馬に出向く対象…およそ十年ほど前から占者たちが異世界に現れたと騒ぎだした龍族の皇子、中でも彼の目当ては間違いなくその総括たる聖龍王だろう。
次元を越える力を有すると云われる鳳凰の力を持ってすれば、異次元に住むと伝えられた彼らに会いに行けるというわけだ。
「………しかし皇子の話であれば、寧ろ貴方の方こそ興味がおありかと思いましたけど」
なんでも現れた皇子というのは先代の生まれ変わりとか…ならば、先代となるロイにより親しかったのは彼の方であるはずだ。
「まあ…全くないとは言わないが、正直どちらでも構わない。それに同行はアルに止められた」
「止められた?」
「異次元の情報は一切ない。安全な世界である保証もないのに、そんな場所に連れていけるはずがないということらしい」
知らされた詳細に、男は流石に苦笑を漏らす。
確かに正しい判断かもしれないが、この世界では最早敵なしとすら言える彼を、そこまで過保護に扱ってどうするのだという思いで。
「父上の復活をもくろむ輩が聖龍王を捕らえようとやっきになっているようだが、もしそうなれば父上がアルを放っておくはずがない。アルはそれを快く思っていないだろうからな」
「それは‥……あの人の性格を考えると、聖龍王は命がないように思えますが」
ロイに固執していた彼にとって新たな聖龍王の存在はただでさえ目障りに思っているだろうに、復活を阻止するという理由も付けば短絡的に手っとり早く始末するという結論を出すに違いない。
見も知らぬ新たな聖龍王の身を思い、男はなんとなく同情の念を抱いた。
「ロイの後継など認めないと言っていたし、本人もそのつもりで出掛けたようだよ。ただ‥・・」
そこで一端言葉を区切ると、その先に続く考えに少しおかしくなったのか、声をたてないままに笑う。
「……‥ただ?」
男が痺れを切らしたように先を促すと、彼はそれが真実かのように確信をもった表情を返した。
「アルは案外ロイの生まれ変わりとやらに情が移るのではないかと思ってね」
告げられた言葉は、少なからず男を驚かせた。
それなりに長い付き合いになるが、彼が誰かに感情を動かされることなどは相当に想像し難い。
目の前にいるこの男…レイスを除いては。
「アルはあれで相当ロイに入れ込んでいたからな。アルと…そしてお前も、心の奥底では未だ彼奴のことを引きずっているのだろう?」
話を自分にまで振られ、男は思わず苦笑した。
その言葉にレイス本人が除外されていることには些か疑問が残るが、自分自身についてもそれはそれで否定し難いところもある。
「お前は未だにその剣を肌身離さず持っているのだしな。もし目の前に新たな聖龍王が現れたら、それはどうするつもりだ?」
男が腰に下げた二本の剣…しかし、一本は鞘から抜くことすらできない特殊なものである。
「さて…‥‥その時になってみないことには分かりませんね。別に形見分けのつもりでこれを持っているのではありませんが、私も貴方やアクシアル殿と似た感は持っていますから」
剣をあの城から持ち出したのは、ロイの残したそれが政や戦略に利用されることを望まなかっただけで。
今では世界から存在すら忘れ去られた秘宝は、それでも失った主が戻る日を信じるように他者を拒み続けている。
真に聖龍王を名乗るに足りる…ロイの後を継ぐに足りる相手でなければ、彼の残した大切な品など与えられるはずがない。
「流石に、こう周りが騒がしくなってくると思い出してしまうものですね。もう長いことあの人の話をすることもなかったというのに」
自嘲気味に言って、けれど瞳を懐かしむように細める男に、レイスは彼を見守るように表情を和らげた。
「この後、何か急ぎの用事はあるのか?」
「いえ、買い物がてら新しい仕事でも探そうかと思っていたくらいです」
「私はもう帰るところだったのだが、用事がないのならお前も来ればいい。久しぶりに食事でもご馳走しよう」
レイスの珍しい提案に、男はその表情に喜びを表しながらも回答を躊躇う。
彼とあまり親しく接しすぎると、後でアクシアルの反応が怖いのだ。
しかし、男の心情を察したレイスは関係ないと笑い飛ばした。
「私を置いていったアルが悪いのだよ。一人で過ごすことにそろそろ飽きていたところでな…それとも、私の誘いを断るかい?」
確信犯であるレイスの言葉に、男は降参したように肩を竦めた。
レイスの誘いを断るなど、それこそアクシアルに何を言われるか分かったものではない。
「貴方もお人が悪い」
男の言葉にレイスは満足げに瞳を細め、その先を聞くこともなく彼を連れて町を後にした。

 
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