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◇◇◇◇◇



洗面室を出ると、そういえばこの建物の構造すら知らないことを自覚して、聖は一瞬立ち止まる。
先ほど自分の携帯電話と一緒に手渡された小さな紙、そこに上品な文字で書かれた名前はこのホテルのことらしいことをつい今し方知ったばかりだ。
ひとまずアクシアルを探すべきかと、廊下を明るい方へと進むと、開けた視界に飛び込んできたのは見知らぬ男性…服装から察すれば、おそらく板前か何かだとは思う。
本当にホテルなのかも疑いたくなる広い部屋の、さらに大きく用意されたキッチンスペースで、黙々と何かを作っている。
そんな光景を呆然と見つめながら、そういえば以前貴志の家に招待された時が確かこれに近い感じだったななどと、割とどうでもいいことに思考を使って。
「そんなとこ突っ立って何してんの?」
予想に反してアクシアルの声は背後から掛かった。
「や、なんか‥・・慣れない。こういうの」
仏頂面のまま振り返った聖は、どうやら困惑しているらしい。
「オレが作っても良かったけど、お前の好み知らないし食材も見慣れない物ばかりだからな。食欲薄いなら余計、食べ慣れた食事の方がいいと思ったんでプロに頼んだんだけど」
背を軽く押すようにして、アクシアルは聖をソファーへと促す。
「でも俺、ホントに食べられるか分からないんだけど‥……」
「相当体力落ちてるようだし、明日出かける気でいるなら一口でも口につけるくらいしてみたら?余程胃が受け付けないってんなら、無理には勧めないし。どーせ、しばらくは寝る気ないんだろ」
言い当てられ、渋々といった風にソファーに腰を下ろすと、それだけでも気分が楽になり、やはり体力がすっかりなくなっていたことを自覚する。
確かに、さっきの今では眠る気がしない。
気遣うように額に伸ばされた指先にも、今は特別不快には感じなかったから、甘んじて受け入れる。
「微熱が下がらないみたいだけど、しばらくはそれも仕方ないみたいだな」
「ん‥…多分」
人の温もりに安堵して、溜まりに溜まった疲労にいっそこのまま眠ってしまいたかったけれど、また夢を見るのが怖くて起きていることを意識して心掛ける。
「そんなに寝るの嫌なの?ベッドが嫌ならここで寝ても構わないけど」
どう見ても無理して起きている聖に、アクシアルは苦笑しつつ問い掛けた。
「……………うるさい」
不服げに頬を膨らませ、聖はアクシアルを避けるように彼の手を払うと背を向ける。
「いつも、あんな?」
夕方のときも、確か相当顔色が悪かったことを思い出す。
今は一体どれくらいまで記憶を取り戻しているのか、本当はかなり気に掛かるところだが、あまり深く聞けばさっきのように苦しませるかもしれないと思うと、アクシアルにはそれもできずにいた。
「‥・・場合によってだから、どうともいえないけど。多分印象の強い内容の方が思い出すことは多いと思う」
極日常的な断片を思い出すことはあっても、やはり割合からいえば酷く心の傷になっていることを思い出すことが多い。
後は………レイスのこと。
考え込んでしまった聖にアクシアルは肩を竦めると、丁度キッチンから出てきた男の方へと歩み寄った。
「ありがとう。後はこっちでやるから、もう下がっていいよ」
チップを渡し体よく男を追い払うと、出来立ての料理を持って聖の元へと戻る。
ソファーに合わせた低めのテーブルへ、大きくはない土鍋風の器と取り皿を並べるアクシアルに、聖はふと思い出すと慌てて声を上げた。
「そういえばっっ、あのっ・・‥‥肩、とか。アリガトウ」
さっきは精神的余裕が全く無かったので気づくことができなかったが、あれほど深かった肩の傷はすっかり治っていて、その他全身にあった小さな傷もまるで夢だったかのようになくなっている。
「今回は特別にサービスしとくけど。そうそう毎回助けてやれないぜ?」
「うん。ありがとう」
ルアウォールが封印されている今、アクシアルがどういう立場にいるのかを知ることはできないが、貴志の様子からすればおそらくあまり変わらないのだろうと推測して。
『本当に信用できるんですか?』
さっきの電話で貴志から念を押すように何度も聞かれた言葉。正直に回答すれば、それは分からないとしか答えられない。
聖ではなくロイであったなら、断言できるけれど。
結局なんの理由があって自分を助けてくれているのか、それは分からないままなのだ。
「なに?」
向けられ続ける視線に痺れを切らしたのか、アクシアルは苦笑しながら聖へと問い掛けた。
「あんたのこと、信用していいのかなって思って」
素直に疑問を口にした聖に、アクシアルはガクリと肩を落とすと、呆れを隠すように力の抜けた視線を聖から外した。
「‥‥‥‥そら、自分で判断する内容だな」
「分かってる。けど、なんか‥…ロイの思考が邪魔して」
どこまでを差し引いて考えればいいのか、境界線が分からないのだ。
目の前にいるアクシアルが、あまりに昔と変わらないから余計、混乱する。
「……………。じゃあ例えば、ロイだったら‥‥どうなの?」
「それなら簡単だけど・・・」
伺うように掛けられた言葉に、聖は素直にそう口にして。
しかし、そういえば性格が相当ひねくれていたロイが、アクシアルに素直に自分の気持ちを伝えたことなどあっただろうかと考える。
「なんでそこで黙り込むかな」
やれやれと溜め息を吐くアクシアルに、聖はどうしたもんかと思考を巡らせた。
「ロイってあんたにそういうこと言わなかったなと思って。聞きたい?」
逆に問いを返されて、アクシアルは一瞬言葉に詰まる。
「言いたくないなら聞かないぜ。強要しないし、今更だし」
言いながら、できたばかりの雑炊を取り皿によそう。
あっさりと返った言葉とは裏腹に、どこか拗ねたようなアクシアルに、聖はなんだかおかしくなって笑みをこぼした。
「簡単だよ。アルが名前で呼んでくれたら信用する、じゃなかったら信用しない」
さらりと白状すれば、珍しくもアクシアルの驚いた表情が見られた。
「呼び分けてくれてたの知ってたから。二人きりでも名前で呼ばない場合は私情を挟まない公的立場を踏まえた上での行動、たとえ戦場でどんなに緊迫した瞬間でも名前を呼んでくれたら味方になってくれる」
「・・・・・・・・・・・うっそ〜、全然信用された記憶ないんだけど。大体あの人そんな簡単じゃないでしょ」
複雑そうに笑いながらも、聖の言った言葉通りにはどうにも信じられないらしい。
「だから、それだけ信頼してたってこと。本人に教えると調子に乗るから言わなかっただけ」
「…………あらそ」
聖の言葉にすっかり脱力したアクシアルは、しかし俯いた顔はなかなか上がらない。
「アクシアル?」
反応の返らないアクシアルに、聖はきょとんと首を傾げた。
「……………今更、ちょっと‥‥・それ、卑怯だわお前」
ようやく顔を上げると、呆れ返ったような恨みがましいような、そんな視線を聖へと向ける。
「そっそんなこと言われても・・・・・あんたが聞いてきたんじゃん」
聖は責められているような気分になり、申し訳なさそうに視線を落としながらも、ふてくされたような口調で返す。
「そりゃそーだ」
盛大に溜め息を吐きアクシアルは聖の隣に腰を下ろすと、夜食をよそった小皿を聖へと手渡した。
未だ浮かない顔で俯く聖の頭を軽く撫でて、寄りかかるように聖の肩に肘を掛ける。
「滅茶苦茶嬉しい。感謝」
顔を上げた聖に降参したように笑って返した。
「食べたら?聖のために作らせたんだし」
「あ、う、うん」
手渡されたレンゲを受け取って、ようやく少し精神的に余裕ができると、どうやら空腹感はあるらしいことにも安堵する。
無理が出ないよう少しずつ口に運ぶ聖の横で、アクシアルは上体をソファーの空いている側へ寝ころばせた。
「あんたは食べないの?」
「後で。今胸がいっぱいだし」
クッションへ戯れるように顔を埋めて言うアクシアルに、どうやら喜ばれたらしいことに聖自身も嬉しく感じる。
「‥‥‥少しは、恩返しになった?」
いろいろと助けてもらったから。
少しでも喜んでくれたら嬉しい。
聖の言葉に顔を覗かせアクシアルは視線だけを流して、口の端には笑みを載せる。
「じゅーっぶん、お釣りが返るくらいに」

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