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幸い、洗面台のある部屋にたどり着くまでは誰にも会わずに済んだ。 もっとも、これだけ目元がヒリヒリする状態では、顔を洗った程度でどうにかなるものでもないのだろうが。 棚に収納されていたタオルを勝手に拝借して滴を拭い、分厚いレンズの填められた眼鏡を掛けて正面に設置された鏡を見ると、やはり予想通りに目元は大げさなほど真っ赤に腫れ上がっていた。 (・・・・久々に派手にやったな) 鬱な思いと一緒に深く息を吐き出して、ようやく落ち着いた自分を認識できると、途端に空腹感が襲う。 (さっき食ったっつの) あれだけ泣けば無理もないのかもしれないが、それでも自分自身になんてゲンキンな生き物だと呆れ返った。 確か部活後に備えた補助食料が鞄に入っているはずと当たりをつけて、鞄をリビングに置いたままだったことを思い出す。 この家に連れてこられてすぐに夕食をご馳走になったのだが、一人で再び出ていった貴志のことが気にかかって、静はその後ずっと玄関で待っていたのだ。 個人宅だからどうってことはないのだろうが、貴重品と離れているのもやはり居心地が悪いと考えると、静は素直に一階のリビングへと向かった。 階段を降り、曇りガラスの填められたドアからこぼれる室内の明かりに人が居ることは予想できたが、気にせず部屋のドアを開ける。 奥に設置されているテーブルに座っていたのは貴志で、人の気配に一度顔を上げたようだがとくに声は掛からなかったので、静も無言のまま自分の鞄を探す。 記憶通り窓際に立てかけられたままだった自分の荷物を手に取って中を物色して、出てきた食べ物といえば購買で買った黒糖ラスク。 未開封だったそれを開け、とりあえず一枚をくわえた。 残るは三枚、食べられないわけではないが、流石に深夜に差し掛かるこの時間では食べ過ぎだろうと考えて。 「………委員長、夕飯は?」 そういえば一人出掛けていた貴志は一緒に食べていなかったことを思い出す。 「さっき食べたよ」 さっきの今で気まずそうにするかとも思ったが、彼に限ってそれはなかった。 「何、お前お腹空いたの?静は夕飯食べただろ」 言って振り返った貴志は、繊細そうな眼鏡を掛けていて、そうしているといかにも学級委員だと無駄に関心してしまう。 二枚目を取り出しながら、貴志の座るテーブルへと向かった。 「食べたけど。散々泣いたらお腹空いた」 「……………まだ怒ってる?」 返された答えに言葉を詰まらせ、溜め息混じりに視線を外す貴志を気にするわけでもなく、静は彼の正面の椅子を引くとテーブルに片頬を預けるように頭を寝ころばせて座る。 「なんで?お前さっき謝ったじゃん、聞かれたから答えただけ。一枚食べない?」 貴志の質問には興味なさそうに言葉を返し、ラスクのパッケージの開封された側を貴志へと無造作に向けた。 「‥‥‥もらう」 つい今し方食事を終えた貴志は特別食べたいと感じたわけではないが、一人では食べきれないらしい静の気持ちを察したらしい。 一口かじったラスクを左手に持ち、貴志は再び手元のプリントへと視線を落とした。 「………何してんの?」 貴志のシャープペンシルの丁寧な動きをしばらく目で追っていた静は、それとなく疑問を口にする。 「気分転換」 上体を起こして覗き込めば、それは昨日配られたばかりの夏休みの宿題だった。 「……………うっわ、ガリ勉」 「非日常的なことばかりに頭を使っていたから、日常的なことをした方がリラックスできる」 げっそりと呟いた静を気にすることもなく、貴志はそう言葉を返すだけで動く手は止まらない。 「この家に置いてある本は粗方読んでしまったし、どうせ自己嫌悪が激しい時は気が散って読書は無理だからね。宿題なら集中力が低くて頭に入らなくても義務だから、やったことが無駄になる訳じゃないし」 貴志の言葉に静はしばし考えを巡らすと、テーブルの端に置かれていた貴志のペンケースへと手を伸ばした。 「僕にも一枚ちょうだい」 然も当たり前というように手の平を貴志へと差し出す。 「一応これ、俺の分なんだけど」 それでも律儀に残りのプリントを取り出した貴志は、やはり静に渡すことを躊躇う。 「僕の分は家に置いてきちゃったんだから仕方ないじゃん。試験休みの部活に宿題なんて持ってこないでしょ、普通」 「・・・・お前な」 貴志の意志はお構いなしのようで、静は彼の手から適当にプリントを奪った。 「どうせ休みの間もしょっちゅう学校来るんでしょ。僕はそもそも部活だし、そん時にでも僕の分と交換すれば問題ないない」 シャープペンシルをチキチキと鳴らしながら言って、静は手にした英語の問題を読み始めた。 「ガリ勉は嫌なんじゃなかったのか」 貴志は溜め息混じりにそう言ってみるものの、既にプリントと筆記具の奪還は諦めている。 「べっつにー。僕ガリ勉小僧だもん。委員長とおそろい〜」 いかにもつまらなそうな口調で言われ、だったらよせばいいのにと貴志は心の中でだけ呟いて、自分も宿題を再開した。 「そもそも、委員長落ち込んでる風には見えないけど。鉄壁のポーカーフェイスってヤツ?」 宿題に専念したのかと思えばそうでもなく、かといって特別興味がある風でもなく話す静に、貴志からは少しの沈黙が返る。 「……………一番嫌いな人の一番嫌いな行動を自分も取っていたことに気づいたんで、人生類を見ない衝撃というか。今回の件が片づくまではそんな余裕ないけど、終わったらしばらく立ち直れなさそう」 静に対してそんなことを素直に白状する自分に少し驚きながら、問題の解き終えたプリントをめくり三枚目を取り出した。 「人生類を見ないって………僕の知ってる人?」 人に対して好き嫌いをあまりはっきり区別するようには見えないだけに、使われた単語が大袈裟なせいもあってか、静は少しの興味を持った。 「クリフ」 酷く端的に答え、何事もなかったように宿題を続ける貴志に、静の方は驚いて顔を上げた。その名前は、確か貴志の前世と聞いた気がする。 前世とか輪廻転生とか…そもそも信じていたわけではなのでそういった類に夢を見たりはしていないけれど、貴志の話を聞いた限りでは記憶のある彼は前世との線引きがないように感じていただけに、意外というか。 一歩間違えば自己否定のようにも取れるが、貴志がそういった人間でないことも、静は承知している。 「何?」 視線に気付いた貴志が顔を上げるが、静は返答に困る。 「いや、あの‥‥・人間て奥が深いな、と」 今の気持ちを表現するのに上手い言い回しが見つけられず、結局そんな言葉を返した。 「何それ」 案の定…というか。貴志からは不審げに細められた視線が返る。 「ああでも、委員長だから例外かな」 独り言のように呟く静に、貴志は視線で何のことだと訴えてくる。 どう説明すればこの感じが伝わるかなと再度考えを巡らせた静は、左手で頬杖をつくと視線は手元のプリントへと落としながら言葉を選ぶように口を開いた。 「人付き合いする時ってさ、初めは大体相手との心地良い距離間を模索するでしょ。こんなこと言ったら嫌われるかなとか、この話題好きだったよなとか。誰でも侵して欲しくない絶対領域ってあるだろうし…だから、交流しながら相手がどんな人物かって当たりをつけて接する」 珍しく饒舌な静に、貴志はおとなしく耳を傾けながら、自分も宿題を再開する。 「それって自分の洞察力が物を言うと思うんだけど、僕は結構得意な方なのね」 「・・・うん、見てて分かる」 物事の考え方なんかは年齢よりもずっと高い位置にあるように思うが、それで自分のように同級生に一歩引かれるようなことは彼にはない。 寧ろ、静はクラスの中心にいることが多いのだ。 「別にそれに自惚れてるつもりはないんだけど、委員長にはそれが通用しないんだよね」 「‥‥………そう?」 言葉に貴志は少し驚いたように顔を上げた。 静は同年代にしては珍しく、話をしていて飽きない相手であり、それはやはり静の力によるところが多いというのが、貴志の素直な感想である。 「うーん‥・・他のみんなと話してるときと比べると、どうも口を滑らすことが多いっつーか、今の一言まずかったなって後悔すること多いし。かといって予想に反してお前さらっと許容してくれちゃったり…かと思えばさっきみたいに一番触れて欲しくないとこ平気でざっくりくるし」 いかにも不思議そうに言う静の何気ない言葉に、貴志は苦笑して「悪かったよ」と再度の謝罪を口にした。 「いや、それはもういいんだけど。それよりそんな的確に言い当てられるほど、委員長には心情読まれてたのかと思って、そっちのがショックでかかった」 静は再びぐにゃりと机に頬を預けるようにして、心底悔しそうに眉間に皺を寄せている。 「それは多分お前の落ち度じゃなくて、俺が人付き合いが下手なせいだと思うよ」 素直に白状すれば、今度は静の方から意外そうに驚く視線が返った。 「社交辞令とか、一線を置いた関係は得意だけど。今まで同年代で友人と呼べるような相手はあまり居ないから、静に感謝しているところは大きい」 流石に少し気恥ずかしくて、貴志は誤魔化すように視線を手元へと落とす。 てっきり静はいつもの調子でからかいにでると身構えていたのだが、訪れたのはどうにも不自然な沈黙で、貴志はややして再び視線を上げた。 「……………何でお前の方がそういう反応返すかな」 見れば静は赤面した顔をどうにか隠そうと両腕で頭を抱え込んでいて、しかし覗く耳の端までもが赤かったので全く意味をなしていない。 どちらかといえば恥ずかしいのは自分のはずであるのだが、静のおかげでその思いもすっかり萎えてしまった。 「僕は委員長みたいな人にそーゆーの言われるタイプじゃないんだってっっ」 軽いノリのクラスメイトや女子には言われ馴れていても、それは表面上愛想良く振る舞っているからであり、貴志のように本性がばれている相手に言われるのは耳を覆いたくなるほど恥ずかしい。 「‥‥・・・知らなかったなぁ、静がこんなに初心だったなんて」 「ふざけんなっっ」 頬杖をつき心底感心したように呟いた貴志に、静は尚も顔を隠したままの状態で反発する。 やはり彼は年相応というか…可愛いなあなどと思ったが、流石にそれは本気で怒るだろうと口にしなかった。 「なんというか、静は俺を買い被りすぎだと思うけどな」 言って小さく息を吐くと、すっかりやる気のなくなってしまった宿題のプリントをたたみだす。 「白状すると、本当は俺の皇子としての力は戦闘向きじゃないんだよね」 言われた言葉の意味を取りかねて、静はようやく僅かに顔を上げて視線をよこした。 「ゲームとかと一緒で、魔法にもいろんな属性や特性があるからね。地龍の属性は癒しと守護…静的なものなんだ」 「‥‥・え、じゃあ」 驚いたように顔を上げる静に、貴志は苦笑を返した。 「そ、攻撃力では特別なものはなにもない。あとはセンスと努力かな」 守護魔法といえど、力の質が違う魔族が相手であれば、それは呪縛にもなる。それに皇子の力に頼らなければ、他の力が使えないというわけでもないのだ。 「勿論それを補うための努力を惜しんだつもりはないし、負けてやるつもりもないけど・・・って、不安にさせた?」 表情から明るさの消えた静に、貴志は再び苦笑して。 「心配はしてない。お前が出来ないことを軽々しく引き受けるような性格じゃないって分かってるし」 返す言葉とは裏腹に、静の表情から硬質的なものは消えない。 なんとなく、続く言葉を察して貴志は大丈夫だからと笑って見せたけれど。 「……………何も出来ない自分がふがいない」 さっきのような追いつめられた風ではなかったが、今度は無理に悔しさを隠すことはしなかった。 真っ直ぐな静の心を、貴志は羨ましいとさえ思う。 「俺としては、静がいてくれて随分助かってるけど」 「……………どこら辺が?」 貴志の言葉を半信半疑で受け取ったらしい静は、貴志へと伺うような視線を向けた。 「言葉にするには難しいけど…そうだな、静が側にいるお陰で、俺は冷静でいられるかな」 「‥‥‥なんで?」 再度の疑問の言葉に、貴志はえぇと…と苦笑を漏らした。 「そんな言及されても困るけど」 いつもそこまで深く考えながら行動しているわけではないし、いきなりつっこまれてもすぐに切り替えせない。 「‥・・よく、分かんないや。とりあえず、少しは委員長の役に立ってると思ってもいいってこと?」 「そういうこと」 「分かった」 消化不良のような表情で、それでも一応静から了承の返事をもらうと、貴志は小さく息を吐いて掛けていた眼鏡を外した。 と、丁度のタイミングで部屋に透夜が入ってくる。 「葛乃部に電話、愛しのひーさんから」 ドアの方へと振り向いた二人に、透夜はにっこりと笑いつつそう告げた。 |
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