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〔Y〕 | |
降り立ったのはオフィス街で、表通りから外れた脇道…しかも週末とくれば、思惑通り人影は全くなかった。 荒く乱れる呼吸は極力押さえて気配を殺し、失われた平行感覚にコンクリートの壁に背を預ける。 (耐えろっっ) 自分にそう言い聞かせつつ、歯を食いしばりどうにか意識をつなぎ止める。 先ほどの公園から距離にしてもあまり離れていないオフィス街…襲いくる吐き気にしゃがみ込みたい思いを堪えつつ、しかし今の状況を打開する術が見つけられずにいた。 二人を逃がした後、力の耐える限り結界を維持しながらその場に留まり自らの身を囮とし、膨れ上がった相手の力に結界が押し潰されると同時に瞬間移動の能力をフルに使ってその場を逃れたのだ。 これ以上の混戦は己の首を絞めるようなもので、この場から少しでも遠くへを逃れる術を模索していたのだが・・・。 地下鉄…は多分乗れない、今の自分には体力的に耐えられないだろう。 かといって、地龍の皇子である貴志の力が及ぶ地下以外で…たとえばバスやタクシーなどの移動手段では、敵の恰好の餌食となるしかない。 それ以前に歩くこともままならない有り様で、このまま皆の元へとたどり着くにはあまりに無理難題とうべきである。 (情けな‥……) ぼんやりと綾奈たちのことを思い浮かべ、貴志に任せておけばおそらくは無事に逃げ延びただろうことに、逆に今の自分には守らねばならない何かは無いように思いながら。 (肩‥・・放っておくとバスケできなくなるかな・・・) ぼんやりと考えるのは、本当はどうでもいい内容。 先ほど貴志がいくらか治してくれてはいたが、傷が深かったせいでほとんど止血しただけのような状態だった。まあ、聖にしてみれば既に痛覚が麻痺している状態なので、どうこういったものでもないのだが、できることならバスケットは続けたいのが本音といえる。 もっとも、元の生活に戻れるかという疑問の方が先ではあるが。 感覚が麻痺して動かない右腕に、肩の傷を押さえるように手を当て瞳を伏せた。 貴志には何とかなるなどと言っておいて、それはやはりハッタリでしかないのだ。多分貴志もそれを見抜いていたからしつこく食い下がったのだろうけれど、自分のせいで彼らまでまきぞいにするわけにはいかなかった。 ああしておけば、貴志であれば渋々でも皆の護衛を任されてくれるだろうとの打算もある。 (つってもロイじゃないんだから、俺命令なんてできる立場じゃないんだけど・・・) 思い出したら流石に苦笑を漏らしてしまった。 あの世界では確かにそう位置づけられた地位かもしれないが、自分たちの世界には神も皇子も存在しているわけではない。自分はただの一般市民で、彼はただの後輩のはずだ。 それは勿論貴志も理解していただろうけれど。 (・・・後で謝っとこ) とにかく今はこの場を逃れることが先決である。 しかし、貴志を先に行かせてしまった以上、力に対抗する術を持った頼れる仲間など存在しない。 封じられた自身の力と記憶…それらを解放できれば、或いはこの状況を打開できるかもしれないとの思いはあるが、それを行うには未だ躊躇いがあった。 誰がいつ、何のために掛けたかも分からない封印。それが第三者によるものなのか、それとも自分自身の手によるものか・・・。 ただ一つ、不自然に欠落した記憶が聖にはある。幼少期の〈母親〉との記憶だけが。 そこへと行き着いてしまった思考に、聖は無意識のうちにその身を抱きしめた。 記憶を失ってから、誰もその頃のことは話してくれない。 けれど、顔を合わせれば罪悪感に満ちた顔で謝罪する母と、母方の親戚から注がれる殺意にも似た冷徹な感情、酷く過保護な父と姉の姿は、経緯は分からずとも自分の立場を理解するには十分で。 記憶の欠落と封印とが必ずしも直結するものかどうか、明確ではないにしても…それでももし、〈そのため〉に自ら掛けた封印だったとしたら・・・。 そこまで考えたところで、近づく人の気配にとっさに身構え、しかし視線を向けた表通りに人影はない。 「此処だ」 耳元で響いた声に反応する間もなく、意識を縛られた聖の身体は力無く崩れ、それは声の主によって当然のように抱き止められる。 「ヤバくなったら呼べって言っといただろーが…って、もう聞こえないか」 この状況で自分の気配に気づいただけでも上出来だけれど…などと呆れつつ、アクシアルは壊れ物を扱うように聖をそっと抱き上げた。 「やーっぱ信用ないのかねぇ」 ふいにバルコニーに現れた人の気配に、ロイは少し複雑な心境で席を立つと、まっすぐにそちらへと向かった。 ガラスの扉をゆっくりと開き、予想通りの相手の訪問に、それでも最初に浮かんだのは笑顔だった。 「いらっしゃい。珍しいね、城まで来るなんて」 この前会ったのは、三ヶ月以上前…その時は敵だった。彼、レイスと、あの男から仲間を守らなければならなかった。 「近くまで来たから寄っただけだ」 それは嘘、知っている。 「入ってよ。誰も居ないし」 既に公務も終わり就寝時間である今は、側近や侍女たちもいない。 「相変わらずだな。私など部屋へ通していいのか?」 それは口先だけの問い。そんな心配など全くしていないからこその訪問であることも、承知していた。 「勿論見つかったら怒られるよ」 ロイは笑いながら言って、けれど躊躇う様子はないことに、レイスも素直に部屋へと入った。 ロイは机に戻ると広げていた日記帳をしまい、お茶の準備をする。 「……………。相変わらず、不器用な生き方だな」 棚の上に並べられた装飾品を興味なさげに触っていたレイスは、少しの沈黙の後、唐突にロイへとそう話し掛け、ロイはぴくりと肩を震わせた。 「あはは、進歩ない?」 振り返らないロイにレイスは息を吐き、通り過ぎ様に頭を軽く小突く。 「全くと言っていい程にな」 呆れた口調はどこか暖かく、ロイにはどうしようもないほどに懐かしく嬉しい。 レイスは勝手知ったるとばかりに部屋の奥に設置されている応接用のソファーへと腰を降ろすと、普段するように足を組んですっかりとくつろぐ。 そんなレイスの様子にロイは小さく息を吐くと、煎れたお茶とカップのセットを彼の待つテーブルへと運んだ。 「近くまで来たって、何か用でもあったの?それとも新しい薬草の研究材料採取かなにかかな‥・・」 「あんなもの嘘に決まっている」 当たり障りのない世間話を口にするロイに、レイスはつまらなさそうに一言返し、ロイはテーブルへとティーカップを移していた手を止める。 「お前はそんなこと分かっているだろう」 もう一言。素っ気なく掛けられた声に、ロイはどうしていいか分からずに瞳を伏せる。 「‥………多分私が進歩しないのは、レイがそうやって甘やかすからだと思うよ」 苦笑混じりに言って、止めていた手を再び動かし出したロイに、レイスは今度こそ完全に呆れかえった視線を返した。 「感情を堪えることや殺すことばかり覚えて、発散することをまるで知らないなど…いつか心が腐敗するしかなくなる」 言いながらロイの腕を取ると、強引に引き寄せて自分の隣へと座らせた。 「ッッ?!」 そのまま頭を抱き込むと、ロイの目元を手のひらで覆うようにする。 「とうに限界を越えているだろうに、口先ばかりで強がるな」 感情の籠もらない声音で耳元に響く言葉に、ロイが自覚するよりも早く見開いた瞳から熱い滴が溢れ出た。 「泣き虫のくせに」 止まらなくなった涙に困り果てて俯くロイに、レイスは深く溜め息を吐く。自分の前ではこれほど脆い面を見せるくせに、何故身内や仲間たちの前では素直に感情を出すこともできないのか。 「‥‥・やっぱり、無理なんだ・・」 レイスの腕に匿われるような状態で、ロイは頬を伝う滴を賢明に拭いながら言葉を紡ぐ。 「私が大切だと思ってしまえば、それだけでその人を危険な目に合わせてしまう………クレアのように」 涙と共に堪えていた感情が溢れだす。 「こんな‥こんなつもりじゃなかったんだっ!ただ、彼女が側にいてくれることで癒されて…それが彼女の危険につながることも分かっていたから‥・・」 諦めたつもりだった…そう努力したつもりだった。 彼女には幸せでいてほしかった。 けれど、結果はこの有様だ。 「光を失ったクレアに、私は職を奪い…夢を奪い、約束されていたはずの将来を打ち砕いたっ」 彼女の言った通り、視覚が機能しなくなった彼女にノマの側仕えとしての責は外さざるをえなくなった。 クレアの実力をもってすれば国王軍に戻ることも可能だったが彼女は辞職を希望し、それがクレアの本心ではなく、ただ自分との距離を取るための選択であると分かっていて、ロイは彼女の申し出を受領することしかできなかった。 「だから言ってるだろう。そんな枷にしかならないような地位など捨ててしまえばいい」 「・・‥そんな‥の、簡単に言うなっ」 レイスはいつだって出来ないと分かっていることでも、それがロイの本心にある願望であればさらりと言い当ててしまう。 気持ちを汲み取ってくれるそれは、嬉しくもあり…少し痛くもある。 「龍族など一番嫌いなくせに」 「そんなことっっ・・・・・・関係、ない」 否定できない自分にバツが悪くなり、ロイは俯いたまま視線を外へと向け、いじけた風のロイにレイスは小さく笑う。 「なんなら私のところへ来るか?」 どう考えても無理な提案に、流石のロイも呆れ返った。 「言ってることが無茶苦茶だよ、レイ・・・」 ようやくと顔を上げ視線を向けてきたロイに、レイスはクスクスと笑って返した。 「言わせてるのはお前だ」 「……………ごめん」 それは絶対嘘だと思いながらも、それでも一応謝ってみれば、口調はやはり拗ねている。 「周囲の期待になど応える必要はないと思うが」 ようやく落ち着いたらしいロイの涙に、レイスは指先で軽くそれを拭ってやると、ティーカップへと手を伸ばした。 「‥‥・・・分かってる」 顔を逸らすようにソファーの背へ懐くように頬を寄せ、身体を丸めるロイの姿を猫かなにかのようだとレイスは感じながら、口にした薫り高い紅茶の味に、他人の細かい好みまでを覚えて忠実に再現するロイの腕に感心を覚える。 知り合った頃はただ泣くばかりの幼い子供だったが、いつのまに此れほどまでに完璧主義になったのか。 「意地を張るのも程ほどに、な。お前はプライドが高いからな」 「・・・・・・。こんな性格になったのって、多分間違いなくレイのおかげなんだけど」 言葉に剥れたまま振り返ったロイに、レイスは気休め程度に記憶を辿り、結局は意地の悪い笑みを返した。 「そんなこともあったかな」 |
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